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Claude Fable 5がヤコビアン予想の反例を出したというので、ヤコビ行列の基礎からSymPyで確かめた

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2026年7月20日、Anthropic所属の数学者Levent Alpöge氏が、Claude Fable 5が生成したという3変数の多項式写像をXで公開した
1939年から87年間未解決だった「ヤコビアン予想」の反例だとしている。

この写像は、ヤコビ行列式がどの点でも定数 2-2 になるのに、異なる3つの点を同じ1点に写す。
確かめるべき主張はこの2つだけで式も短く、手元のSymPyで両方とも再現できた。

この記事はヤコビ行列を知らない前提で書いている。

ヤコビ行列は多変数関数の微分係数

1変数関数 f(x)f(x) の微分係数 f(a)f'(a) は、点 aa でのグラフの傾きを表す。
言い換えると、点 aa の近くで関数を1次式で近似したときの係数になる。

f(x)f(a)+f(a)(xa)f(x) \approx f(a) + f'(a)(x - a)

多変数になると入力も出力も複数になる。
3変数なら F(x,y,z)=(F1,F2,F3)F(x, y, z) = (F_1, F_2, F_3) という形で、3つの数を受け取って3つの数を返す。
このときの微分係数にあたるのがヤコビ行列で、各成分を各変数で偏微分して3×3に並べる。

JF=(F1xF1yF1zF2xF2yF2zF3xF3yF3z)J_F = \begin{pmatrix} \dfrac{\partial F_1}{\partial x} & \dfrac{\partial F_1}{\partial y} & \dfrac{\partial F_1}{\partial z} \\[6pt] \dfrac{\partial F_2}{\partial x} & \dfrac{\partial F_2}{\partial y} & \dfrac{\partial F_2}{\partial z} \\[6pt] \dfrac{\partial F_3}{\partial x} & \dfrac{\partial F_3}{\partial y} & \dfrac{\partial F_3}{\partial z} \end{pmatrix}

偏微分 F1/x\partial F_1 / \partial x は、yyzz を定数だと思って F1F_1xx で微分すれば出てくる。
記号が変わるだけで、計算は1変数の微分と同じ。
役割も1変数のときと変わらず、ヤコビ行列は点の近くで写像を線形写像(行列の掛け算)で近似したものになる。

1変数多変数
微分係数 f(a)f'(a)ヤコビ行列 JF(a)J_F(a)
接線で近似線形写像で近似
f(a)0f'(a) \neq 0 なら aa の近くで逆にたどれるdetJF(a)0\det J_F(a) \neq 0 なら aa の近くで逆にたどれる

行列そのものに馴染みがなければ、AIの記事でよく出るベクトルと行列、ここだけ読めれば怖くないに行列の読み方だけまとめてある。
ヤコビ行列はAI関連でも出てくる道具で、Anthropicがモデル内部の読み出しに使ったJ-lens(Claudeの中間層の共有作業領域J-space)のJもJacobianのJ。

ヤコビ行列式は体積の拡大率

表の最後の行に出てきた detJF\det J_F をヤコビ行列式(ヤコビアン)と呼ぶ。
行列式は、絶対値がその線形写像による体積の拡大率(2次元なら面積、3次元なら体積)に、符号が向きを保つか鏡写しに裏返すかに対応する。

たとえば F(x,y,z)=(2x,3y,z)F(x, y, z) = (2x, 3y, z) のヤコビ行列は対角に 2,3,12, 3, 1 が並ぶだけで、行列式は 66
この写像はどの点の近くでも体積を6倍にする。

行列式が 00 になる点では、その点での1次近似が少なくとも1つの方向を潰している。
逆に detJF(a)0\det J_F(a) \neq 0 なら1次近似はどの方向も潰しておらず、逆関数定理という定理が「aa の近くに限れば FF は1対1で、滑らかな逆写像がある」ことを保証する。

ポイントは「近くに限れば」という但し書きにある。
局所的にどこも潰れていなくても、全体で1対1とは限らない。

F(x,y)=(excosy,  exsiny)F(x, y) = (e^x \cos y,\; e^x \sin y)

この写像のヤコビ行列式は e2xe^{2x} で、どの点でも 00 にならない。
それでも (x,y)(x, y)(x,y+2π)(x, y + 2\pi) は同じ点に写るので、全体では無限対1になっている。
局所的に潰れていないことと、遠く離れた場所どうしが重ならないことは別で、逆関数定理が保証するのは前者だけになる。

ヤコビ行列はどこで使うか

一番身近なのは積分の座標変換で、極座標に直したとき積分に付く rdrdθr\,dr\,d\thetarr がヤコビ行列式(の絶対値)にあたる。
座標を変えたぶんの面積の拡大率を掛けて辻褄を合わせている。
最適化や機械学習では、入力を少し変えたとき出力がどう変わるかの計算がそのままヤコビ行列で、ニューラルネットワークの勾配計算も層ごとのヤコビ行列の積み重ねでできている。
ロボット制御では、関節を少し動かしたとき手先がどちらへ動くかをヤコビ行列で計算して、目標位置から関節の動きを逆算するときにも同じ行列を使う。

ヤコビアン予想が主張していたこと

1939年にドイツの数学者Ott-Heinrich Kellerが出した問題で、現代の言い方に直すと次の主張になる。

成分がすべて多項式の写像 F:CnCnF: \mathbb{C}^n \to \mathbb{C}^n について、ヤコビ行列式 detJF\det J_F00 でない定数なら、FF は全単射で、逆写像も多項式で書ける。

全単射は「どの出力にもちょうど1つの入力が対応する」ことを指す。
複素数 C\mathbb{C} で述べるのが標準形だが、今回の反例は係数も衝突する点もすべて実数なので、実数の範囲で読んでも反例になっている。

1変数なら一瞬で正しいと分かる。
f(x)f'(x) が定数 c0c \neq 0 なら f(x)=cx+df(x) = cx + d の1次式しかありえず、逆写像は x=(yd)/cx = (y - d)/c でこれも1次式。

さっきの excosye^x \cos y の例は、行列式が e2xe^{2x} で場所によって値が変わっていた。
ヤコビアン予想は行列式が「00 でない定数」、つまりどの点でも同じ倍率で伸縮する写像だけを相手にする。
多項式という条件も強くて、sin\sinexe^x のような周期性は持ち込めない。
この2つの条件がそろうと、局所と大域がずれる例は作れないように見えていた。

部分的な結果は積み上がっていた。
次数2の多項式写像については正しいことが証明済みで(Wang, 1980)、次元を上げる代わりに次数を3まで下げられる帰着も知られていた(Bass–Connell–Wright, 1982。全次元で次数3の場合を示せば全体が従う)。
1994年にはPinchukが、条件を「00 でない定数」から「どの点でも 00 でない」に緩めた実数版なら反例が作れることを示している。
定数の場合だけが残り、Smaleが1998年に挙げた「次の世紀に向けた数学の18問題」の16番にも入っていた。

公開された反例の中身

AlpögeがXに投稿したのは、次の F:C3C3F: \mathbb{C}^3 \to \mathbb{C}^3
Anthropicの公式発表や論文ではなく研究者個人の投稿で、Fable 5が生成したという点も現時点ではこの投稿にもとづく。

F(x,y,z)=((1+xy)3z+y2(1+xy)(4+3xy)y+3x(1+xy)2z+3xy2(4+3xy)2x3x2yx3z)F(x, y, z) = \begin{pmatrix} (1 + xy)^3 z + y^2 (1 + xy)(4 + 3xy) \\ y + 3x(1 + xy)^2 z + 3xy^2 (4 + 3xy) \\ 2x - 3x^2 y - x^3 z \end{pmatrix}

成分の次数は上から7、6、4。
主張のひとつめは、ヤコビ行列式が恒等的に 2-2 であること(予想の前提を満たす)。
ふたつめは、次の3点が同じ点に写ること(予想の結論に反する)。

F(0,0,14)=F(1,32,132)=F(1,32,132)=(14,0,0)F\left(0, 0, -\tfrac{1}{4}\right) = F\left(1, -\tfrac{3}{2}, \tfrac{13}{2}\right) = F\left(-1, \tfrac{3}{2}, \tfrac{13}{2}\right) = \left(-\tfrac{1}{4}, 0, 0\right)

3つの異なる入力が同じ出力に行くので、この写像は単射ではない。
逆写像が多項式で書けないどころか、逆写像そのものが存在しない。

graph TD
    A[成分がすべて多項式か確認] -->|3成分とも多項式| B[ヤコビ行列式を計算]
    B -->|展開すると定数 -2| C[前提を満たす]
    C --> D[3つの点を代入]
    D -->|3点とも同じ出力| E[単射でない<br/>逆写像が存在しない]
    E --> F[結論が成り立たず反例成立]

衝突のうち1点は暗算で追える。
x=0,y=0x = 0, y = 0 を入れると xyxy の項が全部消えて、第1成分は 13z=141^3 \cdot z = -\frac{1}{4}、第2成分は y=0y = 0、第3成分は 2x=02x = 0
残り2点は分数が混じって手計算の量が増えるが、確認すべき計算が四則演算しかないことは変わらない。

SymPyで再現する

ヤコビ行列式の方は9個の偏微分と3×3の行列式展開になるので、プログラムを書いて計算した。

import sympy as sp

x, y, z = sp.symbols("x y z")

F1 = (1 + x*y)**3 * z + y**2 * (1 + x*y) * (4 + 3*x*y)
F2 = y + 3*x*(1 + x*y)**2 * z + 3*x*y**2 * (4 + 3*x*y)
F3 = 2*x - 3*x**2*y - x**3*z

F = sp.Matrix([F1, F2, F3])
J = F.jacobian([x, y, z])
print("det J =", sp.expand(J.det()))

pts = [(0, 0, sp.Rational(-1, 4)),
       (1, sp.Rational(-3, 2), sp.Rational(13, 2)),
       (-1, sp.Rational(3, 2), sp.Rational(13, 2))]
for p in pts:
    print("F", p, "=", [f.subs(dict(zip((x, y, z), p))) for f in (F1, F2, F3)])

実行結果。

det J = -2
F (0, 0, -1/4) = [-1/4, 0, 0]
F (1, -3/2, 13/2) = [-1/4, 0, 0]
F (-1, 3/2, 13/2) = [-1/4, 0, 0]

展開した行列式は変数が全部消えて、本当にただの 2-2 が返る。
3点の代入結果も一致した。
検証に必要なのはこれだけで、証明を読んで理解する作業がない。
フェルマーの最終定理のときは証明の査読に年単位の時間がかかったが、こちらは反例の形をしているので、この計算を認めるかどうかだけで真偽が決まる。

反例の検証はどこまで進んだか

投稿の直後から検証が同時並行で進んでいる。
Imperial College LondonのPaul Lezeau氏がこの反例をLeanで形式化し、Google DeepMindのFormal Conjecturesリポジトリにプルリクエストとして提出した。
複数のレビュアーの承認が付いていて、執筆時点(2026年7月22日)ではマージ待ちのオープン状態。
数学者コミュニティ側でも、MathOverflowでのSageスクリプトによる検証や、Secret Blogging Seminarでは、Will Sawin氏による「なぜこの形の写像が存在できるのか」の幾何学的な解釈が紹介されている。

一方で、査読済みの論文もプレプリントもまだない。
Fable 5がどういう探索でこの式に到達したのかの過程も公開されていない。

反例が見つかって何が変わるか

日常の計算や工学が変わるわけではない。
座標変換も勾配計算もロボット制御も使っているのは局所の性質で、そちらを保証する逆関数定理には影響がない。
変わるのは「定数ヤコビアンなら大域的にも逆にたどれる」という、多変数多項式への見方になる。

反例が本物なら、n3n \geq 3 のヤコビアン予想がまとめて否定される。
www \mapsto w の恒等成分を横に並べて変数を増やしても、ヤコビ行列式は 2-2 のまま定数だから。
研究対象として残るのは n=2n = 2 の場合と、この反例が無限遠でどう重なっているのかの理解になる。
ワイル代数に関するDixmier予想も連動する。
Dixmier予想が正しければ同じ次元のヤコビアン予想も正しいことが証明されているので、対偶により n3n \geq 3 のDixmier予想も一緒に否定される。
関係は単純な同値ではなく、逆向きはヤコビアン予想の 2n2n 次元の場合からDixmier予想の nn 次元の場合が従う形になっている(Belov-Kanel–Kontsevichの論文)。

Lean形式化を長年推してきたImperial College LondonのKevin Buzzard氏は、自身のブログで、AIによる未解決問題への反例は2026年に入ってこれで3件目だと数えている(5月のErdősの単位距離予想、7月上旬のGrothendieck由来の群スキームの問題、そして今回)。
そのうえで、機械検証が済んでも「この例で何が起きているのかを人間が正確に理解する」段階はこれからだとしている。

参考